これからはじまるお話は、まだ世が「戦国ブーム」になるずっと以前に書かれたお話です。
ある女の子が、当時新発見されたばかりの「川中島合戦図屏風」を博物館へ見に行った翌日に、シンクロナイズトスイミングのテレビ中継を視ながら、パイを作っていて、思いついたのです。「こんな時代考証を無視したものを公開するなどけしからん」とお感じになる方がいらっしゃったらごめんなさい。笑って赦していただければ幸いです。
フェアリ-=妖精というとイギリスやフランスが本場とされているが、日本にも妖精の類はいたのである。山や湖や、城の天守閣などに住み、時には人間を助け、忠実に仕えもし、あるいは人間と恋に落ち、もちろん害をおよぼすこともあった。歴史上の謎とされているたいていのことは妖精と人間が入り乱れておこしたことなのであるまた、実在したかどうか定かでなかったり、あるいは不可解な行動をとっている人物は皆彼らが妖精であったと考えれば納得がゆく。
武田信玄が信濃侵攻の第一歩として、諏訪頼重を滅ぼし、諏訪湖一帯を領有した天文十一年十月のことである。信玄は軍師の山本勘介にとてもむずかしい命令を下した。勘介は頭をかかえながら、諏訪湖のほとりへやってきて、太い枝を一つ、細い枝を一つ拾うと石にこしをおろした。勘介が太い方の枝を左肩にのせると不思議にもそれはバイオリンに姿をかえ、細い方のえだはバイオリンの弓になり、演奏がはじまった曲目はヘンデルの「水上の音楽」。
山本勘介がなぜバイオリンが弾けるかといえば、この謎の天才軍師、実は駿河から甲斐にいたる広い山地を跳梁する妖精だったのである。妖精にははかりがたい力があり、その時代の人間には出来るはずのないこともやってのけてしまう―ということにしておいてほしい。
ともあれ、「水上の音楽」は青く澄んだ湖面にしばらく響きわたっていたが、やがてメロデイにあわせて、白く長くまっすぐな美しい女の片脚が水面から出たり、入ったりしはじめた。ワンフレ-ズ後、もう一方の脚もあらわれ、そろった二本の脚はくるくると回りながら上下運動をする。シンクロナイズドスイミングでスピンとよばれる動きである。次に白く細い腕と水草のようにひろがる長い髪ついにあらわれた顔は絶世の美形。
ドイツのオンディ-ヌ、イギリスのヴィヴィアン、中国の西施、湖や川にすむ妖精はたいていきれいな女性である。諏訪湖の妖精も美少女であった。
「あら、誰かと思えば駿河の山の妖精の勘介さんじゃないの。あんまりすてきな演奏だからつい踊っちゃったわ。本当はもう秋だからシンクロはやめてフィギィアスケ-トの練習をはじめなくちゃならないんだけど」
そういうと妖精は青地に紅葉を散らした小袖をひるがえしながらみごとなジャンプをみせて、岸におりたった。
「今日はね、あなたにおりいって頼みたいことがあっておでまし願ったのだよ。」
勘介は相談した。
「え-っ。お宅の殿様が諏訪頼重の娘を側室にしたいんですって?無理よ。だってあの人たった二十七才で亡くなったのよ。お嫁にいけるような年の娘がいるわけないじゃないの。」
「そこで、あなたに諏訪家の姫になってもらいたいのだよ。」
「その武田の殿様は学歴も背丈も収入も高いかしら?」
「そりゃ天下に覇をとなえようって人なんだから財産はある。教養も高くていらっしゃる。お姿はほれこの通り。」
勘介は信玄の肖像を見せた。
「ちょっと太めね。まあいいわ。十年の契約で側室になりましょう。」
こうして、湖の妖精は山本勘介に連れられて甲府の武田の館に輿入れし、諏訪御寮人と呼ばれた。信玄は彼女に夢中になり、天文十五年、諏訪御寮人は男の子を生んだ。後の武田勝頼である。

